『ももへの手紙』は沖浦啓之監督の作品です。
多分、監督作としては「ももへの手紙」と、あと2本くらいだけだと思います。
初監督作となる映画『人狼 JIN-ROH(2000)』は、
第54回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2000 南俊子賞、
ファンタスポルト1999 最優秀アニメーション賞/審査員特別大賞、
モントリオール・ファンタジア映画祭アジア映画部門 第2位、
ベルリン国際映画祭パノラマ部門正式出品、
第5回アニメーション神戸 個人賞、
第10回日本映画プロフェッショナル大賞 第9位、
第5回日本インターネット映画大賞 新人賞など、
国内外で高い評価を受けています。
スタッフとしての参加も多いね。
そうですね。『ガンダム』とか、『エヴァンゲリオン』とか。
ああいうメカ系の作風で評価されていたのが、 監督本人はあまり気に入ってなかったみたいですね。 ただ、そういう粛々とした仕事の結果、クオリティを認められたそうです。
へえ。
その沖浦監督が、10年の歳月をかけて作ったのが『ももへの手紙』です。 おじいさんが桃山学院大学の名誉教授で、民俗学者だったそうで、 そういう“香り”が作品にも漂っています。
10年かけて作ったことに対して、押井守が 「3年以上かけるとその時代からは離れていく。 ビジネスとしては成立しない。この監督とは一緒に仕事をしない」 と言ったとか。
辛辣ですね。そこまで言うんだ。
でも作品を見ると、日本の“原郷”を感じるんですよ。 今の時代の物語というより、 スタンダードな物語を丁寧に作っているのがよく分かる。
話の筋が、ということですか?
そうそう。母・いく子にとっての原風景が、この町にあるんです。 昭和の空気が描かれていて、屋根の上には「うだつ」があったりして……。
「うだつ」って、何ですか?
屋根の上にあって、隣の家との仕切りになる壁――防火壁ですね。 それが「うだつ」。 四国にうだつの町(脇町南町)なんかもあります。
「うだつが上がらない」の「うだつ」ですか?
そうそう、出世できないっていう意味のやつですね。
母のいく子とももが、瀬戸内海をフェリーで渡っていくところから物語は始まります。 引っ越しです。正確には都会から田舎への“逼塞(ひっそく)”ですね。
「逼塞(ひっそく)」って言うんですか。
いいところへ越すのは“引っ越し”だけど、 財政的な事情で家賃の安いところへ転居するのは“逼塞”。 後に明かされますが、実はお父さんが亡くなったのが原因なんです。
瀬戸内海の島は、いく子が育った故郷で、 エネルギーを充填して、もう一度立ち上がるための “パワースポット”みたいな場所でもある。
沖浦監督のこだわりを感じるのが、 瀬戸内海の島々の空間の気持ちよさですね。 都会から島に移り住むことで、 都会の人と田舎の人の交流が描かれていきます。
いく子の父は、江戸時代の黄表紙を収集していた人でした。 二階の納戸にはたくさんの黄表紙があって、 ももが何気なく眺めていると、そこに妖怪の絵が描かれている。
そして、ももは身近に妖怪の気配を感じて、 やがて“見える”ようになる。 それが、あの三体の妖怪です。
実はフェリーの上で、 水滴が三粒、ももの頭にポツポツと落ちていたんですよね。
物語の型として、僕は勝手に「地球防衛軍型」って呼んでる型があって。 たとえば、宇宙から外敵が来ると、 今まで敵対していた国同士が協力し合う、あの感じ。
ももは、なかなか田舎の人たちに馴染めない。 でも妖怪が現れることで、 だんだん田舎の子どもたちと仲良くなって、 連帯関係が生まれていきます。
なるほど。
これを「地球防衛軍型」と。
そんな型が。
……ないですけどね。ふふ。
妖怪が見えるのって、ももだけじゃないんですか?
ももだけです。 ももは、敬遠していた田舎の子どもたちの仲間に入っていきます。
島に着くとき、フェリーから見ていると、 子どもたちが高い橋の上から海にダイブして遊んでいる。 あれはただの遊びなんだけど、 仲間として受け入れるための “承認の儀式”みたいにも見えました。
物語の類型としては、「子どもと妖怪が出会う話」です。 たとえば『E.T.』や『モンスターズ・インク』が典型ですね。
警戒心がなくて、素直な気持ちを持っている存在―― だからこそ、幼い子どもにだけ“見える”のかな、と思う。
『となりのトトロ』も、まさにそうですよね。
この三体の妖怪には役目が与えられていて、 誰かが亡くなったあと、天国へ行くまでの間、 その人の家族を見守る、という仕事をしている。
ももといく子を見守って、 それをお父さんに報告する、 という役割でもある。
ももが妖怪たちと仲良くなるきっかけは、 妖怪が“あの世とこの世を行き来する通行手形”を落としたのを、 ももが拾ったことでした。
「大事なもんやから、返してくれ」って妖怪たちが言う。 ももがそれを割ろうとすると、 「それがないと帰れなくなる。何でも言うこと聞くから」 ――そんなやりとりから、 ももが少しずつ優位になって、 だんだん仲良くなっていく。
いく子とももの関係は、 この時点ではまだギクシャクしています。 ももは、こんな田舎に来たくなかった。
仕方なく、村の人たちと一緒に過ごしている、 という感じです。
そんな中で、ももがいなくなる。
瀬戸内海の島に台風が来て、 雨の中、いく子と村の人たちが 慌てももを探しに行く。
いく子は元々、喘息持ちで、 雨の中を探し回ったことで体調が悪化し、 だんだん苦しくなっていきます。
そこへ、ももが帰ってくる。
ももはいく子を心配するけれど、 島にはお医者さんがいない。
別の島にいるお医者さんを 連れてこなければならない。
そのためには橋を渡らないといけないけれど、 台風の中では危険すぎて行けない。
喘息は処置をしないと命に関わる。 ももは、どうしてもお医者さんを連れて来たい。
そこで、妖怪たちが力を貸します。 橋を渡るとき、 台風の雨風を防いでくれるんです。
ここも、地球防衛軍型なんですよね。 台風という“さらに外側の外部要素”が加わることで、 ももと妖怪の関係が決定的に深まる。
外から来た存在の、 さらに外にまた別の外部が来る、 という二重構造の物語になっていて、 単純なアニメ作品じゃないな、 と思いながら観ていました。
それから、もののけが現れる場所って、 だいたい“境界”が多いと言われているんですよね。
境界?
橋の上で出会う、とかね。 たとえば平安京だと、 戻橋や六道の辻で魔物に出会う。 これが典型的な「境界」です。
それと、“マージナル”と呼ばれる辺境ですね。 島の周りは全部が海だから、 マージナルだらけでもある。
昔の人は、海とあの世―― “海(あま)=天(あま)”は 繋がっていると思っていたらしいです。
それと、時代背景も重要です。 この物語は、 今の時代の話じゃないんですよ。
そうでしたっけ。
テレビから、 前川清が歌うクール・ファイブの曲が流れてくる。 あれは「噂の女」で、 1970年の歌です。
時代、あまり意識せずに観ていました。
季節はお盆ですね。
お祭りがありました。
小さな船を作って、海に流す。 灯籠流しは各地にある行事で、 小さな船に、 いろいろな物やメッセージを載せて、 海に流して亡くなった人に届けます。
空間的な背景と、 季節や時間の設定も、 魔物が現れるのに すごく効果的でした。
「社会が不安定になると妖怪が出てくる」 とも言われます。
1970年はオイルショックの年で、 世界的な経済不況が 押し寄せてきた時代でした。
厳密には、妖怪じゃないんですよね。 三人は、 妖怪の姿を借りた “天からの使い”だと、 僕は解釈していました。
この三人、 実は江戸時代以前に、 かなり悪さをしていたらしいんですよ。
元々は別の姿で、 罰を与えられて、 今の姿になったんですよね。
声を担当しているのが、西田敏行でね。
そうそう。 西田敏行が声を当ててるアニメ、 という印象で覚えていました。
ビジュアルは、 もう完全に妖怪ですよね。 河童っぽい人とか。
不気味なビジュアル。
そして、 お医者さんを無事に連れて帰って来られるのか? ももと、いく子の関係はどうなるのか? そして、 ももはあの“ダイブ”ができるのか? ――っていうお話になっていきます。
タイトルの「手紙」が、キーワードですよね。
お父さんは、 亡くなる前に 手紙を書こうとしていたよね。 不器用なのかな。 結局、書かずじまいでした。
「ももへ」って書いただけの、 白紙の手紙。
お父さんが亡くなる直前に、 ももがお父さんと喧嘩別れしてしまう。 そのまま、 お父さんが亡くなるんですよね。
そういうところも、意味がありそうですね。
この作品は、 “ヒアとゼア”、 こちらと、向こうの話やと言えますね。
手紙は、 ヒアとゼアの“間”にあるもの。
三体の妖怪も、 その間の架け橋やし、 お祭りの船も、 同じ役割を持っている。
黄表紙は、 ももと祖父との“間”にある。
こっちと向こうの間にあるアイテムが、 作中にはたくさん出てきます。
だからこの物語は、 いつの時代にも通じる “スタンダード”なんやと思う。
調べてみたら、舞台は広島みたいですよ。
燈台の景色が、鞆の浦でしたね。 『崖の上のポニョ』の舞台と 同じ場所です。
(鞆の浦は、 沖浦監督のルーツで、 着想の元になった場所やそうです。)
へえ、そうなんですか?
ポニョにも、燈台が出ますね。
鞆の浦っぽい景色もあるし、 四国の景色も混ざってる。
『ももへの手紙』の舞台は、 大崎下島(呉市豊町)の 御手洗地区みたいですね。
今治に橋が架かっていますよね。 しまなみ海道かな。 あそこ、バイクで突っ切るんですね。
今回、この作品を選んだ理由は?
物語がいいな、と思いました。
中盤で、 三体の妖怪がお腹を空かせて、 村のストアで商品を勝手に取ってくる。
そこで、 ももが「食べものがたくさんある山」へ 連れていくんですね。
山を登っていくと、 瀬戸内なので、みかん畑があって、 そのみかん畑には、 みかんを運ぶための 簡易モノレールがある。
ちっちゃいやつ。
その台車に乗って行くと、 イノシシの親子が出てくる。
妖怪が、 うりぼうを捕まえようとすると、 母イノシシが、 子どもを取り戻すために どこまでも追いかけてきて、 台車に体当たりをして、 妖怪たちが散々な目に遭う。
そういう逸話のあとで、 ももが行方不明になります。
ももを探すために、 いく子は台風の中を行く。
――あの逸話は、 そのための話やったんですね。
はい、はい。
子どものために、 母が命を投げ出す話を重ねて、 丁寧に物語を作っている。
逃げ出してしまうところは、 よくある型という感じもしますね。
『となりのトトロ』(1988)で、 メイちゃんが脱走した、 ああいう感じ。
確かに、あるかな。
そういうのって、 スポット的な出会いを描く作品が 多い気がして。
結局、 見えていたものが 見えなくなってしまうことも多いし、 この作品はどうなのかな、 って気になりました。
大抵は、 「ひと夏の思い出」みたいに、 別れを描くよね。
目的が達成されたら、 見えなくなっちゃう、 とか。
そう、そう。
記憶から消えるんでしょうね。
この妖怪、 黄表紙から出てきますけど、 黄表紙に描かれている三体は、 みんな旅姿なんですよ。
だから、 いなくなる存在なんですよね。 やってきて、 また出て行く。
なるほど、旅人ですから。
いろんな物語でも、 旅人は英雄的な存在として 描かれますからね。
『シェーン』(1953)とか。
『用心棒』(1961)とか。
ある意味、この妖怪たちも英雄です。
その三体って、 ももだから関係があるような存在ですか?
徐々に関係が深まっていく。 本当は、 人間に見られたら駄目やし、 関わったら駄目で、 陰で見守るだけの仕事なんです。
見守るだけやから、 あんまり関与しちゃ駄目ですよね。
だから、最後に―― お母さんのために、 お医者さんを迎えに 今治へ向かうシーン。
台風で雨が吹きつける中、 本来なら手助けしちゃ駄目なんだけど、 このまま見殺しにしたら、 お目付役の彼らが 罰を与えられてしまう。
半分は、 自分たちのためでもあるけど、 助けに行く。
最初は不気味な存在やったのに、 観ているうちに、 だんだんいとおしくなってくるんですよ。
――いなくなるシーンは、 やっぱり寂しかったですね。
タッチとしては、 コメディ的な要素もあるんですね。 登場はわりとコメディっぽい。
アニメ向きですね。
日常はすごくリアルに描いてある。 そこに妖怪が出てくると、 急にコメディになる感じ。
面白そう。